最大公約数だけではないメディア、Twitter
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Twitterが変質する?
勝間さんがツイッターにやってきて、その後、広瀬香美さんがやってきたこの1週間。ツイッターは新しいステージに入ったのではないか?というぐらいタイムラインの色が変わっていました。
先週の日曜日あたりは特に新鮮で、有名人を中心とした話題の展開に、悪く言えば理系の大学の学食で見かけるような風景がTL上に繰り広げられていて、その段階では正直言うと、その変化に対して嫌悪感を示していました。
というのも、モバツイッターの写ツやイマココで実現したかったのは、日本中、世界中の誰かの状況や場所を雑多にpostしてもらう手段であって、人それぞれの文脈をてんでバラバラに共有し、突発的にその瞬間その瞬間で、誰かと誰かがつぶやきベースで繋がりあえることにツイッターの価値があると思っていたからです。
F's Garage:twitterは「みんなのもの」じゃない。
http://www.milkstand.net/fsgarage/archives/001619.html
Twitterの個々のユーザの価値。理想としては「総じてフラット」であることが新たな可能性を生み出すのかもしれないけれど実際はそうはいかない。
現実世界で影響力のある人がTwitterに参加すれば、そこでも影響力を保持するし、たくさんのfollowerがつく。
しかし、一部のユーザが影響力を持つことによってTwitterは変質してしまうのだろうか?
最大公約数と素数
テレビって基本的に最大公約数をとるメディアなんですよ。自分が本当に面白いと思うかより、「多くの人が興味を持てるか」ということが大きな基準になっている。(長谷川裕/TBSラジオ)
followという行動は現実世界の行動に例えると、雑誌の定期購読、CSのチャンネル契約に近いものがある。
個々のユーザは1つの雑誌であり、チャンネルであると言える。個々のユーザがメディアとして機能する。
しかし従来のメディアに宿命付けられていた「より多くの人に興味を持ってもらうこと」から幾分、自由になったそれだ。
そして個々のTimelineには最大公約数的な話題ものさばるかも知れないが、素数的なそれがこれからも流れていく。
紀行番組的楽しさ
五本の特番を経て、一九九七年にレギュラー化した「鶴瓶の家族に乾杯」は鶴瓶とゲストが日本全国の町や村へと出かけ、そこで出会う家族や人々との出会いや交流を見せていく紀行番組だ。この番組が伝えたいものは、人間同士の「絆」であり、人々がその土地と生きていくことの喜びである。それはテレビのための作り物や見せ物ではない。その土地のあるがままの姿が映されることにこそ、意味がある。
「鶴瓶の家族に乾杯」はNHKの番組であり、テレビ的なものとは一見縁遠いそれだ。皆が興味を持つであろう最大公約数的な話題からは遠くかけ離れたことをテーマにしているように見える。
そこに住む人たちが持つ本当の素敵さ、豊かさ、面白さ、その場所の素晴らしさがどんどんその人たち自身の中から湧き出てくるのだ。もしかするとそれは彼ら自身も気づかなかった、忘れかけてたものかもしれない。それが見えてくるから人間はいいなあ、面白いなあ、というふうに視聴者は感じるのである
個々のユーザのつぶやきから浮かび上がってくるのは、彼らの人格であり、境遇でありそのバックグラウンドとしての土地だ。僕はTwitterのTimelineからそういうものを感じ取って楽しんでいる。
ひとつのTimelineに繰り広げられる悲喜こもごものつぶやきたち。それらが絶えない限り、Twitterの根っこの部分は変質しないであり続けると僕は思う。