元来僕は、本の感想を言葉に置き換えることにあまり自信がない。本の内容を批評する(論の俎上にのせる)ことについても同様だ。
しかし、この作品を読了した今、自分の思考を形にする必要を感じた。それを形にして外に押し出すことによってこの(物語の)世界から脱けだせるような気がした。
「1Q84」BOOK3を読むにあたって、BOOK1・2を再読した。できるだけ丁寧に、必要とあらばメモを採って。
BOOK1・2の初見時、僕はBOOK3の存在を全く意識していなかった。その後―まとまった分量で語られる―がある事を意識するかしないかで物語はその姿を大きく変えるように感じられる。
去年、僕が「1Q84」に触れたとき青豆は確かにそこでヘックラー&コッホを自らの脳天に向けて発射した(と僕は了解していた)し、自分の中に消化しきれない感情を残しながらも、物語はそこで完結した。
そのように僕は捉え、僕の中の「1Q84」像はそれなりのものだった。しかし今回の再読時にその物語は大きく姿を変えていた。BOOK3の存在を強く意識して BOOK1・2の文章を追うと、多くのBOOK3へと繋がる「ホットな」線がそこには遺されていて、それらは書き手によって接続されれば「機能する」ものばかりだった。
BOOK3ではそれらの線が過不足なく接続された。不吉な(僕にはそう映った)様相を呈していた、様々な位相のできごと、そして人物らは、しっくりとくる後日譚を与えられた。線の接続に大きな役目を果たしたのは「牛河」だ。彼の視点から語られる「1Q84」年は、読者に対してこれ以上なく親切に事の内幕を紐解いたものだった。
BOOK1・2・3を通して読んで、BOOK1・2の魅力をあらためて認識した。その2冊はとても示唆に富んでいて、日本における社会の暗部を見つめようとする著者のまなざしを感じることができる。
かといってBOOK3に魅力を感じないというわけではない。ぼくはこの続編を渇望していたし、それが刊行されて、読むことができてとても嬉しかった。青豆と天吾は「どこかで出会い、手に手を取ってこの世界を出ていく(BOOK2 p283)」ことに成功した。ハッピーエンドは嫌いではない。
今、僕の関心は、BOOK4に移っている。それが刊行されるとしたら、BOOK3における「牛河」のような新たな視点を与えられて物語は進行するのだろうか。
そして、それはBOOK4になるのだろうか?それともBOOK0?青豆、天吾はその世界に存在するのだろうか?
そこまで考えたところで思った。それは「1Q84」である必要はないのかもしれない。新たなタイトルを与えられた新たな作品。そこで僕らはまた「1Q84」年のことを思い出せるのかもしれない。
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「1Q84 BOOK3」★★★★ 村上春樹著、新潮社、2010/4/16初版 602ページ、1995円 →...
2010-04-30 (Fri) 12:57 AM


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